鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

伝えたいことを書く(上)  第230回

2025/02/26
  トランプのような人を人と思わぬ傲ごうまん慢さ、カメレオンのように相手によって体内色素を変える石破茂首相、パワハラ出世主義者・斉藤元彦兵庫県知事。

  この人たちは人間観察の対象としては絶好だが、世界と日本の平和を思えば不安な存在だ。その存在を生みだしたのが新たに登場した、旧ツイッターやフェイスブックなど、SNS。新聞、テレビなどオールドメディアは、場所を奪われたとも言われたりする。 

  新聞の客観報道主義やNHKニュースなどに顕著な親方日の丸主義。その高みにいる姿勢が、身近な感情を優先するSNSに排除され始めた。筆者自身、活字世代でSNSには無縁な存在だが、若ものたちが新聞ばかりか、テレビさえ見ないというのは、上品ぶった中立主義と権力主義、その中途半端が嫌われているようだ。 

  たとえば、原発報道が典型だったが、福島事故まで、原発反対の論調はまったくなかった。大本営発表の延長だった。「原発はイエスバット」だった、と朝日記者から聞かされていた。今では信じられないのだが、つまり、原発は賛成。事故があった時は批判する、というようなスタンスだった。 

  事故と言ってもトラブルのことで、運転トラブルや、事故手前の小さな事故は、めずらしくなかった。ひとつの事故の背後には、無数の事故がある、というのは安全管理の鉄則だ。だが、原発に限って「安全神話」だった。 

  それを振り撒く学者たちも自己催眠に陥っていた。もっとも危険な存在だからこそ、「事故はない」「もっとも安全」と強調された。

  もう一つの武器は、カネだった。原発は巨大なスポンサーだった。原発立地点の新聞には、毎週のように全面広告が載った。個別の電力会社ばかりか、電気事業連合会、政府、それらが寄ってたかって、広告を出していた。 

  福島原発事故の後、大江健三郎さん、坂本龍一さん、澤地久枝さんなどと「さようなら原発」運動をはじめたのは、それまでは原発のことを書くだけだったからだ。