鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

教育の管理と支配、その結末  第249回

2025/07/16
  公立の学校が、牧歌的なものではなくなってきたのはなぜだろうか。たとえば、少し古い話題だが、2カ月ほど前、東京都立川市の小学校に、日中、ふたりの男が侵入、教員に暴力を振るって逮捕された。 

  生徒たちは体育館に避難したが、教職員5人が骨折や打撲傷を負った。その1カ月前、クラスの中で子ども同士のトラブルがあった。子どもの親が相談にきていたが、その日も相談にきたものの、うまく解決せず、いったん帰ったが、知人を連れてきて大暴れとなった(「朝日新聞」5月15日)。 

  その記事によれば、東日本のある公立中学校で、昨年、やはり、同級生同士のトラブルをめぐって、学校側の対応に不満を感じた保護者が来校して暴れた事件が発生している。 

  そこの教員は、「まさに自分ごと」と判断したそうだが「今は学校が抱え込みすぎている。中立の立場から学校で起きたトラブルを判断する仕組みを整えてほしい」と主張しているという。 

  ある教員は十数年前、都内の公立小学校で、やはり保護者が教室に乗り込んできた。自分の子どもをいじめたという相手の子どもを殴ろうとしたので、慌てて背後から羽交締めにして止めた、という。学校が安全地帯でなくなったのは、教員にたいする尊敬が薄れてしまったからだ。 

  戦時中の、国のために死ぬ軍事教育の後、民主教育となったが、80年代、道徳教育と同時に、工場の生産管理方式を真似た、管理教育が愛知県や千葉県を先頭に導入された。 

  公立小中学校が、人間教育の場というより、工場労働者養成の場として扱われ、型に嵌める教育が進行した。その後、教員の管理が強まり、「教員給与特措法」で、残業代もないまま、定員削減。長時間過密労働で、慢性的な人手不足と過労死が多発するようになった。 

  教育現場では、教員志願者が減るばかりか、政府による極端な定数削減が進められている。人間的な教育など、忘れ去られてしまった。自民党による教育の支配が、今日の惨状をつくった。日の丸・君が代教育への回帰が荒廃を招く。