鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

不自由をつくる教育政策  第260回

2025/10/08
  教員不足、持ち帰り残業、休職者の増大と過労死。教育現場は悪化している。その一方で生徒の不登校がふえたばかりか、自殺者もふえ、いじめも減らない。この両局面がどう結びついているのか。 

  80年代から90年代の終わりの20年間、『教育工場の子どもたち』や『せめてあの時一言でも いじめ自殺した子どもの親は訴える』『いじめ社会の子どもたち』などを書きついできたのだが、公立学校の教育環境は悪化するばかりだ。 

  残念ながら事態は快方ではなく、ますます悪化、「不登校34万6000人、教員休職7000人」。この現状をなんとかできないか。 

  もう43年も前の1982年、管理教育でよく知られていた、愛知県豊橋市の小学校を取材した。この時、ある小学校の「写真日記」を見たのだが、廊下歩行訓練という写真に、「廊下でも運動場でも授業中でも放課後でも歩くなら胸をはって腕をふって堂々と歩こう」とのコメントがついている。気をつけの姿勢でいる教員の写真には、「気をつけ! 指先をのばせ、つま先を開け、あごをひけ」とあった。 

  教員と生徒への管理教育が徹底して行われていた。門前で登校してくる女子生徒のスカートの丈や髪の長さを測って、チェックが徹底的にされていた。男子生徒は坊主刈り。まるで軍隊のようだが、トヨタ自動車の「標準作業方式」に倣ならって、マニュアル通りの教育が実施されていた。岡崎市の教育委員会の学校教育課長はこう言った。 

  「坊主刈りは決して強制しているものではありません。学校ごとに自主的にやってきたことです」。「自主的」という管理の徹底はベルトコンベアのように無言の強制としての「同調化」をもたらす。 

  いじめも同調化作用である。企業の生産性向上の桎しっこく梏が、工場の塀を越えて社会的に広がっていった。いま、公立中学校の教諭の労働時間は、過労死ラインといわれる月平均80時間を超えるのが8%もある。教師が自由でなくて、どうして自由な教育ができようか。自公政権は、これまで自由にさせない教育を押し付け、この国を不自由にしてきたのだ。