鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

小田実没後18年(下)  第262回

2025/10/22
  市民運動家としての小田実の功績は、政党に依存しない運動体を組織したことだった。 

  「ベトナムに平和を」をスローガンにした運動は、ベトナム戦争で米軍が北ベトナムを空爆( 北爆)、戦線が拡大されたのを契機に始められた。それまでの日本の大衆運動は、社共と総評運動を中心にして、労働者と学生によって担われていた。1960年の安保闘争が、その運動のピークだった。 

  この時、全国から集まった労働者と学生のデモのうしろに「誰でも入れる 声なき声」の幟(のぼり)を立てた一団がいた。いまから思えば不思議だが、労組に組織されていない市民が、デモに入れる場はなかった、無党派の「市民運動」という考えがなかったからだ。公害運動はまだ始まっていなかった。 

  65年の米軍による北爆開始のあと、「声なき声」の幟を立てていた人たちが集まった。その中心になったのが、鶴見俊輔、高畠通敏、小田実など学者、評論家だった。小田実とおなじ予備校講師だった吉川勇一が加わり、小田が代表格、吉川が事務局長として運動が拡大した。 

  60年代後半は、政党に依存しない市民運動としての「ベ平連」があり、農民闘争としての三里塚( 成田空港)闘争があり、大学自治を求める全共闘運動があり、それらが全国の公害闘争に刺激を与えた。 

  この大衆運動の高揚を先導した小田実は、それから30年後の1995年1月17日、「阪神・淡路大震災」に襲われ、ベッドのそばのコピー機が書棚の落下を防いだ偶然によって、一命を取り留めた。 

  その後、被災者の「私」的損失は「公」的には救済しない、という政府の冷酷さを批判し続け、「災害被災者等支援法案」を作成、市民発議の「市民=議員立法」の成立にむけて猛然と活動を開始する。 

  米軍の空襲を受けた体験と大震災の被災。この二つの大きな体験は、「棄民の死」と苦難の「難死」としての思想を確立し、『被災の思想 難死の思想』として結実している。 

  この行先の見えない混乱の時代に、小田実の大胆な運動と思想の壮大さに、学ぶところは多い。