鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

死刑と冤罪  第265回

2025/11/19
  石川一雄は冤罪者でありながら、一審死刑だった。永山則夫は犯行当時、未成年者だったが、死刑を執行された。 

  坂本清馬は、1910年、「皇族に危害を加えんとした」大逆罪で、幸徳秋水などと24人、死刑判決を受けたが、「聖恩」の特赦として12人が無期懲役に減刑され、死を免れた。 

  二審で、無期懲役に減刑されたが、石川一雄の冤罪は認められず、以後、31年半も獄中に囚われていた。一方、一審死刑だった永山は、控訴審では死刑判決を破棄、無期懲役に減刑された。しかし、検察が控訴、死刑判決から逃れられず結局処刑された。 

  3人に共通しているのは、権力によっていのちを弄ばれた、悲劇である。坂本は特赦を受けて秋田へ移監され、戦後を迎えた。戦後、民主主義社会になって、冤罪を主張した。が、認められず、89歳で病没した。天皇暗殺計画とは、2、3人による架空の座談に過ぎなかった。が、左翼運動への大弾圧として時代を震撼させた。 

  石川一雄の再審請求は3度目だった。が、新証拠を提出しても、事実調べもなく、時間だけが空費され、本人が死去した。第四次再審は、妻の早智子さんが原告となった。冤罪を認めようとしない司法とは、民主主義の敵といえる。 

  坂本清馬の死後再審請求は行われていない。処刑された12人も含めて、でっち上げ事件の責任は未だ取られていない。これからの課題であろう。 

  明治の政治的な冤罪者たちは、幸徳秋水をはじめとして、従容として断頭台に登った。それは潔さを示していた。しかし、美談にしてよかっただろうか。 

  永山則夫は独房から引き立てられるとき、必死の抵抗をした。叫び声や物音が激しかった、との証言がある。安田好弘弁護士の「忸怩(じくじ)たる思い」とは、永山が望んでいた再審請求をしなかったことであり、遺体を刑務所から引き取れなかったことである。 

  遺体には死刑台へ強制連行する時の傷痕が残されていたようだ。いま、高市内閣でスパイ罪が再現されようとしている。