鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

子どもドロボー団   第266回

2025/11/26
  生協組織「パルシステム」の初代理事長だった下山保さんの著書が送られてきた。前から「満州」育ちと聞いていたので、早速、ページをめくった。 

  わたし自身、満州には関係はなかったが、青森県六ヶ所村の取材で、満州から帰国し、戦後、開拓に入っていた人たちの集落が、今度は「巨大開発」に追われることになった悲劇を目にしていた。 

  ある年配の妻は、囲炉裏の傍かたわらに座っていた夫に目をやりながら「この人は私の顔を覚えていなかったんですよ」と詰なじるように言った。夫は軍隊、妻は敗戦直後の逃避行。戦後しばらくして、どこかで再会したようだが、それまでの苦難の道がその一言に言い尽くされているようだった。 

  『飢えと子どもドロボー団』。下山さんの著書のタイトルである。1932年3月、「満州国」建国宣言。100万戸入植の国家計画だった。1937年、彼が生まれる前年に、故郷の山形県では5年間で、3780戸の分村を決めた。下山家4人は42年、舞鶴港から「満州」甘南県の協和開拓団に向けて出発した。5町歩の畑が与えられた。中国人の土地だったが。 

  敗戦と同時に匪賊(ひぞく)化した「満州人」、ソ連軍、国民党軍、蒙古軍などが連日のように襲ってきて、部屋の中はがらんどうになった。開拓団は解散。与えられた小屋で1年以上暮らした。粟が主食だったが、ビタミン不足で壊血病になって三日三晩鼻血が止まらず、血が固まって呼吸困難になった。 
  
  母親が鼻から吸い取る作業を続けて生き延びた。生まれたばかりの2人目の弟は喉の奥まで発疹して窒息死した。九死に一生の日々だった。 

  45年10月16日、7歳、葫蘆(ころ) 島から摂津丸に乗船、10月19日、佐世保港に到着したが、発疹チフスが発生、上陸は11月3日だった。タイトルの『ドロボー団』は、下山さんが船内の食料貯蔵所から乾パンを盗む子どもの集団を組織していたことを指している。

  人を組織する能力はその後、学生運動、生協運動で見事に発揮された。全く同年代でありながら、奇跡的に生き抜いた驚くべき記録だ。