鎌田 慧 連載コラム
「沈思実行」

核のゴミの行方(中)  第206回

2024/08/21
  農業県を目指していた青森県が「巨大開発」の夢に踊らされるようになるのは1969年、閣議決定された新全国総合開発計画(新全総)で、鹿児島県志布志湾岸と並べて目玉とされたからだ。 

  その頃、政府は重厚長大産業の強化拡大、工業開発を目指していた。ところがすでにその計画の裏側に、太平洋岸の六ヶ所村を使用済み核燃料の再処理を中心にした「原子力産業のメッカ」計画が隠されてあった(拙著『六ヶ所村の記録』1991年刊)。 

  この年、核の実験船ともいうべき、原子力船の母港が海軍基地だったむつ市大湊に決定、船名を「むつ」とされた。原子力県への船出だった。翌70年、東京電力、東北電力が隣の東通村に、それぞれ原発10基、合わせて20基、2千万㌔㍗を建設する、と発表して、用地買収に入った。 

  コンビナートを中心にした六ヶ所村の巨大開発予定地に、最初に持ち込まれたのは「低レベル」の核廃棄物だったが、再処理工場の原料という名目での使用済み核燃料、そしてフランスやイギリスから返還されたプルトニウムが入った。 

  核半島のパイロット船となった原子力船「むつ」は、母港から太平洋にむけて出港したものの、たちまちにして放射線漏れ事故をひき起こして漂流、漁民の抵抗を受けて母港に帰れず、経営危機に陥っていた長崎県の佐世保重工に仮住まい。おなじむつ市の津軽海峡沿いの海岸に新母港を建設させて、帰ってきた。 

  「宝船」と言われるほどにカネをばら撒きながら、原子炉を再稼働させることなく廃船。巨額な経費も、つまりはムダに終わった。 

  「むつ」の新母港は、おなじむつ市内でも、津軽海峡側の外洋に面した海岸に建設されていた。そのすぐそばに建設されたのが、使用済み核燃料の「中間貯蔵施設」である。 

  50年以内に六ヶ所村の再処理工場へ運びます。それが、県と「リサイクル燃料貯蔵」との協定だ。しかしその頃すでに、引き受け先のはずの再処理工場は、技術的に行き詰ったまま、廃屋になっている可能性が強い